海賊大名、九鬼嘉隆は伊勢志摩半島一帯を支配していた頃、
織田信長に見込まれ水軍の将として、信長、秀吉に仕えた。
秀吉に仕えていた頃、加藤清正らと共に朝鮮にも出兵して
水軍の将として名をはせた。
 関ケ原の戦いで、敵方についた実子、守隆と東西に分かれて戦った。
東軍徳川勢に敗れ、この答志島に逃れ滞在していた時、家康に許しを
得て迎えにきた実子、守隆を追ってがきたと勘違いして自害して果てた。
 嘉隆の首は、家康の首実検のため京都伏見に送られ、胴は答志島
に葬られた。その後、守隆の手によって首塚が建てられ、
現在「首塚・胴塚」として答志島の和具地区の人達に大切に守られている。
その首塚、胴塚は海に突き出た、築上山(つかげやま)
という小高い山の上にあり、太平洋や鳥羽湾を見守っている。
 伊勢志摩半島一帯には、寝屋子制度というものがあった。
これは若い衆が5人から多いところは10人くらい、よその家の一間を借りて寝起きしていた。
一度共に寝屋子を取った若い衆は、生涯義兄弟の縁を結び、冠婚葬祭はもとより、
何事があっても、すぐに駆けつけてくれる。一間を借りている家の親は、寝屋親といって、
自分の親の言うことは聞かなくても、寝屋親の言うことは聞かなくてはいけない。
志摩半島一帯にあったこの寝屋子制度は、今は無くなりましたけれど、
ただ一つこの答志島の答志地区に今もなお、その良き伝統は引き継がれています。
 一説によると、九鬼水軍がいざと言う時に、舟のこぎ手を集めるのに寝屋子を回れば、
早く人を集めることが出来たから、このような制度を作ったのが最初であるという。
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